令和6年能登半島豪雨 ボランティア 11月
令和6年11/13〜11/17


 娘と孫が来て、にぎやかで幸せな3週間。

その間にも毎日チェックしていたボランティアセンター震災復興子ども支援のフェイスブック。

その中で、代表の佐渡さんが
“11月下旬から能登は、強い風と雪に閉ざされます。
その前にできるだけ支援活動を進めたい。
どうか力を貸してください。”
と呼びかけていらしゃるのを見て、
今回が、今年度最後の能登になるかもしれない…
日にちは限られているけれど、少しでも何かの手伝いができれば…

行こう!

そうはいっても、行くのに一日がかり。
13日朝6時に家を出ましたが、着いたのは、夜19時半。
長かった〜。
ボランティアセンターで前回もご一緒させていただいたWさんと再会を喜び、明日に備えて就寝しました。


11月14日 ボランティア1日目
 今回最初の現場は、Mさんの家の家具出しでした。
ご高齢のご夫婦が住まわれていたというそのお家は、障子と襖に仕切られた広い座敷のある昔ながらの日本家屋。
大きな梁に支えられていたので、地震で少し傾いたけれど、
リフォームして住み続ける予定だったそうです。
しかし、今回の豪雨で、家の3分の1ほどが土砂で埋まってしまい、ご夫婦は住むことをあきらめられ、
全て捨ててほしいと依頼があったそうです。

立派な着物やまだ使えそうな布団もあって
本当にいいのかな。という迷いも正直ありましたが、
もう見るのもつらいのかもしれない。
そう考え、黙々とトラックに積み込みました。
  
昼からは、事務仕事。
曽々木の郵便局はつい先日まで配達業務などを停止していたそうですが、
ここにも、年賀状の販売ノルマがあるそうで、
その数なんと1万枚!!
住民も減っているのに無理でしょう。

見かねた佐渡さんが送料を自腹で負担し、
寄付金付きの年賀はがきを、災害支援として購入していただけないかと
ネットでなげかけたところ、
予想をはるかに超える注文があり
その整理、宛名書き、送付を手伝わせていただきました。
4時ぐらいまで作業しましたが、次々に注文が入ってきて
予定枚数を越えたので、今日はこれで終了。

そして、今回是非行ってみたかったもとやへ。
ここは、地震直後も営業を続けていましたが、豪雨で、店が土砂で埋まってしまいました。
店主はいったんは商売をすることをあきらめたそうですが、
全国からかけつけたたくさんのボランティアによって、土砂がかきだされ
大手業者の手助けもあり、商品も手に入るようになりました。
地元の方からも“是非営業をしてほしい”という声が多く、
11月11日、再オープンしたそうです。

アルファ米やお酒を買って、息子さんとお話しさせていただきました。

もとやスーパーの息子さんが話してくださったこと

自分は別のところで就職していたのですが、
豪雨の後、ここに帰ってきたときは愕然としました。
自分の背丈ほども泥が入っていて、もうどうしようもない。
と正直思ったのですが、
たくさんの人の力で、こんな風になったのが本当に信じられない気持ちです。
本当にありがたくて・・
自分もここに戻ってこようかなと考えています。 

息子さんと話して、少し心がほっこりして、
近くのまちのの湯へ。
自衛隊のお風呂が終わって、それに代わるものとして住民が運営しているそうです。
住民の方はもちろん、
工事関係者やボランティアも無料で入れるのだそうです。
本当にありがたい。

お風呂に入って
さらにほっこり。
   
帰りながら見た町野のまちなみ。
まだ、その爪痕が色濃く残っているところもありましたが、
   
   
流木と土砂に埋め尽くされていた町が、道が通れるようになって
少しずつその姿を変えていました。  
  
11月15日 ボランティア2日目  
  今日も午前中は、M山の家の家具出しでした。
昨日一緒に作業をしたWさんとYさんは3日間のボランティアを終え、
広島に帰られたので、今日は佐渡さんと三人。

積み込んだ家具などは、ここに持ってきます。
数名の方が、燃えるもの、家電、ガラスなど
分別をされていました。

そして、午後からは昨日の年賀状作業。
結局、50件以上7000枚を越える注文がありました。
実は、Mさんの家は、前回ボランティアをさせていただいたNさんの家の近くで、
Nさんいもお会いすることができました。 
   
 10月 Nさんの家の前 今回 
 
お昼を食べていると、奥様がおいしいポテトサラダを差し入れに来てくださいました。  
  
ボランティアの皆さんにきれいにしてもらって、この家に住むことも考えたのですが、
きれいにしてもらった1階部分は、どこからか水がしみ込んできて、置いているものがどんどんかびてしまうんです。

2階部分に住めるかと思いましたが、乾くとどこからか土ぼこりが出てきて、肺に疾患のある主人のことを考えるとそれも難しいと思います。

 そして、なにより、ここに住むのが怖いんです。
実は去年石川県は微弱な地震がずっと続いていて、1月にあの地震が来ました。
でもそれは1月の地震後も続いていて、しかも頻度は去年よりも多いんです。
もう一度大きな地震が来るのではとみんな恐れています。
輪島から珠洲市にかけての海底にはプレートもあって、ここもいつ亀裂が入ると分からないと言われています。
そうなると、今度は津波が起こる可能性もあります。

 でも、ここから完全に離れることはできません。
息子の言うことを聞いて、ここ(町野)とは違うところに住まいを求めるつもりですが、、
農作業が忙しい時は、こちらに戻って仮設住宅に住みながら田や畑を守っていきたいと思っています。
ボランティアの方々のおかげで2階部分に大切なものをしまっておけるので、
いつか、落ち着いて住める家が見つかる日まで
少しずつ片付けながら整理していこうと思っています。

そう話してくださいました。
 
お風呂から帰ると、佐渡さんがおいしい焼きそばとお酒を用意してくださっていました。

恐縮する私たちに、これが最後だからと。
11月に入り寒くなってきて、ボランティアがめっきり減り、運営が厳しくなって
11月いっぱいでこのセンターを閉じるのだそうです。
その横顔が淋しげで、何も言えませんでした。
 
11月16日 ボランティア3日目 
 これが本当に最後になるかもしれない。
曽々木の海岸を二人で歩きました。
   
 ボランティアセンター
ここでいろんな人と話したね。
 4月はあのトイレの横に泊ったね。
いろんな人に声をかけてもらったね。
 10月の曾々木海岸  今回の曾々木海岸
   
   
流木と大きな石がごろごろしていた海岸は、
砂が入って、流木もかなり減っていました。
少しずつその姿を取り戻せますように…  
 10月の八世ノ洞門新トンネル  今回の八世ノ洞門新トンネル
   
建物の半分まであった土砂を取り払い、道が見えていたのでびっくりしました。  
今日の現場に入る前に、佐渡さんが海楽荘に連れて行ってくれました。  
10月の海楽荘 今回の海楽荘
   
   
   
   
11月の連休には、50人を超えるボランティアが入ったそうで
床が見えるようになり、建物を貫いていた流木が取り払われていました。
豪雨で流されて亡くなったご主人のご位牌も置かれていて
手を合わさせていただきました。  
でも、まだ奥には泥が残っていました。
改めて水の恐ろしさを感じました。  
   
最後の現場は、トンネル手前のTさんのおうちです。  
もとは民宿をされていたそうですが、
地震で仮設住宅に移られ、元の家と行き来されながら
家を直しているときに今回の豪雨にあわれたのだそうです。
家はつぶれてしまったけれど、何か取り出せないだろうか。
思い出の品、貴重品の救出作業です。

今日は土曜日だったので、広島から10人を越えるボランティアが来られました。
服の隙間からタトゥがのぞく、パッと見強面の方々でしたが、
明るくて楽しくて、ともすればしんみりとなってしまう現場が
この日だけは、元気な掛け声と笑いに包まれました。
でも、道具はパッチリ用意されいて、何よりものすごいパワーの持ち主の方たちで、

土砂と流木に埋め尽くされた家が、少しずつその姿を現し、
衣類や釣り道具、そして探していらっしゃったタイヤを掘り出すことができました。
   
  
土石流に襲われた旧民宿から思い出の品を救出するボランティアをさせていただいたTさんが話してくださったこと。

あの日、隣の家の母ちゃんが
「あんたんとこの家の上の谷から鉄砲水が出たで。早よ逃げんと!」
と、電話をくれて、すぐ車におかんと嫁さん乗せて出発しました。
電話をもらって車を出すまで3分。
車を取りに行くときには何もなかった道路が、出発する時には膝まで水が来ていました。
二人を仮設に運んで、もしかしたら軽トラ一台でも動かせないかと戻ってみましたが、
すでに、家は谷から落ちてきた土砂で海岸沿いまで流されていました
軽トラは、姿が見えず・・

数日後、水が引いてから、家があった場所に戻って来た時には
海岸まで流された家はつぶれ、残りの家半分とと軽トラ2台は谷から落ちてきたこの土砂の山の中に埋まっています。

着の身着のまま、なんも持たずに仮設住宅に入ったら、
家に入りきらんぐらいの洋服やらなにやら
みんなが届けてくれて、あったかいなぁと思いました。

ボランティアの方に助けていただくのは、4回目です。
家の中から思い出の品を幾つか見つけることができて、
輪島まで出ても店がやっていなくて、タイヤが手に入らないくて困っていたのですが、
今回は、タイヤ8本を出していただいて、これで冬を迎えられます。
ありがとうございました。

辛いことばかり起こったけれど、やっぱりここで生きていきたいと思います。
そして、残った友人とまたいつか釣りに行って楽しく笑いあいたい。
それが夢です。
大きな柱や流木が家を覆い、それを人力で取り除いても、
その下は土砂。
土に見えても大きな石や瓦、いろんなものが埋まっていてスコップが入らない。
最後は手で泥をかき出していました。

“微力だけど、無力ではない。”
あの言葉を思い出しながら、
ひとかけらでも土砂を取り除いて、家が見えてきますように…
祈るような思いで作業をさせていただきました。

そして、ボランティア終了。
佐渡さんにご挨拶をして、まちのの湯でお風呂に入れていただいて
町野を後にしました。

前回の10月より、道路状況もよくなり、
公費解体という看板が至る所に立ち、更地が増え
町の風景も変わってきていっている。

日が上がるころから、4時半に暗くなる前にも
動き続ける重機。バールで解体する工事関係者の方の姿。
少しでも早い復旧を。工事関係者の方の尽力が、
これからは能登の風景を変えていくのだなと思いました。  
 
 
 帰りはのと里山空港の駐車場にできたNOTOMORIに立ち寄ってみました。

ここには輪島の火災で営んでいた飲食店が全焼し、
商売をすることをあきらめていた方が、
焼け跡の中から寸胴鍋やフライパンが出てきて、
もう一度やり直そうと決心して始めたラーメン店があると
テレビ金沢の番組で知りました。
是非行ってみたいと思っていました。

中にはいくつかお店が入っていて、
5時から夜の部がオープン。
5時前後から、たくさんの人が入ってきてにぎやかに…
なんだかうれしくなりました。

探していたお店のラーメン。
本当においしかったです。  
 

4月、10月、11月と訪れた能登。
町の風景も、能登の人たちの思いも‥
少しずつ変わってきていると感じました。

もう帰りたくない。見たくもない。
何もかも捨てて、新しい土地でやり直したい。

思い出の品を見つけたい。
能登で、あるいは能登から離れない場所で生きていきたい。

2度の災害に見舞われ苦しみながら、
それでも前を向いて生きていくために、それぞれの選択をして
歩み始めていらっしゃるのだと感じました。

今までお世話になってきたボランティアセンターが閉所して、
春になって、また能登に行けるかどうかわからないけれど、
能登を思い出にはしたくない。と思います。

ボランティアをさせていただいたことで、
たくさんの人のあたたかさ、強さにふれて
普通の生活は当たり前ではなく、大切で感謝すべきものだと教えていただきました。

これから始まるきびしい能登の冬。
それを乗り越えた春に、能登の方たちの笑顔が広がっていますように…
これからも、能登を見守り続けていきたいと思っています。


令和6年能登半島地震 ボランティア 4/23〜5/1 → https://jk4kea.sakura.ne.jp/watashinchi/outdoor-log-ver3/out-2024-4-notoboranthia.html

令和6年9月能登半島豪雨 ボランティア9/30〜10/6

令和6年能登半島ニュース               → https://jk4kea.sakura.ne.jp/watashinchi/outdoor-log-ver3/out-2024-5-noto.html